1966年4月26日の札幌です。
集まった関係者がローマで開かれているIOC総会の結果の連絡を待っています。
1972年のオリンピック冬季大会が札幌で開催されることが決定しました。
手を取り合って役員や職員が喜びを爆発させています。
万歳三唱に乾杯です。歓喜の瞬間です。
4都市で争われたオリンピック招致はカナダのバンフが有利と伝えられていました。
病気で総会を欠席した高石真五郎IOC委員の録音テープが披露され、ブランデージ会長が「高石への最高の見舞いは札幌大会だ」と発言。
形勢が逆転したということです。
札幌にとってオリンピック開催は悲願でした。
1940年の開催地に決まっていたものの、日中戦争で開催権を返上。
戦後1950年に日本がオリンピックに復帰し、1968年の大会にも立候補していましたが、フランスのグルノーブルに敗れていました。
オリンピックを5年後に控えた1967年12月10日、関連施設の第1号、苫小牧ハイランドスケートセンターがオープンしました。
夜間照明つき。練習用リンクとして使われる1周400m、幅15mのコースです。
しっかり防寒をした子どもたち。
地元の人を観客席に集めて、開場式が開かれました。
神事が執り行われます。
植村甲午郎 札幌オリンピック組織委員会会長です。
祝詞が奏上され、玉串を奉納します。
テープカットの後、横断幕を掲げたスケーターによる初滑りです。
選手でしょうか、美しいフォームのスケーターによる“模範試走”も行われました。
アジアでは初となる冬季オリンピック開催に向けて競技会場だけでなく、
札幌の地下鉄、地下街、道路も整備されました。
1972年2月3日の開会を目前に控えた1月24日夜、
IOCのブランデージ会長が東京・羽田着の日航機で来日しました。
出迎えたのは、明治天皇の孫でIOC委員の竹田恒徳氏です。
録音テープで札幌招致に貢献した、高石真五郎委員は、大会を見ることなく1967年に88歳で亡くなりました。
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